【あまり語られない事実】奥田民生は「差別化」戦略の天才である。
2018/06/26
どうも!
奥田民生ファン歴26年のエフジューです。
独自の道を突き進む、ミュージシャン奥田民生。
他の誰とも違う、独特の立ち位置を確立してますよね。
では、奥田民生はどうやって今のポジションを獲得したのでしょうか?
実は彼は、デビュー当時から「ある事」を一貫して行ってきています。
それは、「差別化戦略」です。
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差別化戦略とは
差別化戦略(さべつかせんりゃく)とは、マイケル・ポーターによって提唱された競争戦略のうちの一つで、特定商品(製品やサービスを含む)における市場を同質とみなし、競合他社の商品と比較して機能やサービス面において差異を設けることで、競争上の優位性を得ようとすることである。
(wikipediaより引用)
それでは奥田民生は具体的に何を行ってきたのか?
時系列で追っていってみましょう。
奥田民生の差別化戦略・年表
1987年 ユニコーンでデビュー
当時はビートロック全盛。
デビュー当時のユニコーンもまた、ビートロックの枠組みの中の曲をやってました。
まだ、この頃はおとなしい感じですね。
1988年 セカンドアルバム「PANIC ATTACK」
この年、初の日本青年館でのワンマンライブをやったんですが、これが2部構成になってまして。
第1部は発売前のセカンドアルバムを全曲、メンバーは座ったまま演奏するという、前代未聞のスタイルでした。(第2部は通常のライブ)
この時点で早くも「他の人がやってない事をやってやろう」という姿勢が見えますね。
1989年 サードアルバム「服部」
このアルバムでビートロックから完全に脱却。
ハードロックあり、サンバあり、ラテンあり、ミュージカル風オーケストラあり(有名な「大迷惑」という曲)というごった煮状態。
しかし、1曲1曲の音楽的なアイディアはすばらしく、大迷惑のヒットも手伝ってユニコーンはブレイクを果たします。
1990年 アルバム3枚3か月連続リリース
「ケダモノの嵐」「踊る亀ヤプシ」「ハヴァナイスデー」の3枚を1ヶ月に1枚のペースでリリースしていくという暴挙。
「ケダモノの嵐」は日本レコード大賞アルバム賞を受賞。
「踊る亀ヤプシ」では、バンドのくせにメンバーが演奏に参加したりしなかったりするという、これまた暴挙。
ユニコーンは他のどのバンドとも違う、独立したポジションを獲得します。
1994年 ソロデビュー
この頃から衣装は全く着飾らなくなり、「だらだらした男」のパブリックイメージを獲得。
「なんでこんな大学生みたいなカッコしてるんですか?」というインタビューに対しては、「まわりがみんなキラキラしてると、この方が目立つでしょ?」と答えてます。
1996年 アルバム発売なしでツアーを周る
「アルバムをリリース → ライブツアー」という音楽業界の慣習に逆らい、シングル1枚発売のみでツアーを実施。ちなみにこの時のシングルが有名なイージュー★ライダーという曲です。
2000年 シングル「マシマロ」
曲のタイトルは「マシマロ」なのに「マシマロは関係ない」で終わるという迷曲を生み出す。
2004年 「快楽ギター」
「快楽ギター」という曲で「次のコード進行はAADA~」という前代未聞の歌詞を生み出す。
2009年 ユニコーン再結成
ユニコーン16年ぶりの再結成。
しかし復活第1弾シングル「WAO!」のボーカルは、キーボードのABEDON。
メインボーカルのタミオは、楽しそうにカウベルを叩いてるだけ。サビでちょっとアコギ弾くだけ。
2010年 「レコーディングライブ」実施
客前でタミオ一人で全部を楽器を1つずつ録音していき、歌入れも行い、その場で完成した音源を配信するという前代未聞の「レコーディングライブ」を実施。(奥田民生ひとりカンタビレ)
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まとめ
というわけで、一貫して「差別化」を意識してキャリアを形成してるのがわかりますね。
「あくまでドライブ」という曲の中で、こんな歌詞があります。
はるかな道を 独特の道を
選んだと 行くのだと
ミュージシャンとしての才能はもちろんですが、「他の人がやってない事をやろう」としてきたからこそ、現在の独自のポジションを獲得したと言えますね。
以上、「奥田民生は差別化戦略の天才である」でした!
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